(1)事前学習
事前学習では私達が訪れる南魚沼の栃窪集落の基本知識や現地に持っていくと良いものなどの講義があり、この時点で南魚沼に対する期待や想像が膨らんでいったのだが、個人的に興味深かったのは周りの人の考えが多様だったことである。人によっては田舎生活そのものに興味を持つ人がいたり、雪国に興味を持つ人がいたり、限界集落における教育について興味を持つ人がいたりと様々な考えを持つ人がいることに驚いた。レクチャーの後に自己紹介を兼ねてこの授業や南魚沼で期待することを言い合う時間があったのだが、この意見交換で周りの人の意見が多様だということに興味深さを感じた。事前学習の前は南魚沼という地域にこそ面白いものがあると思っていたが、周りの人々の考え方は多様で面白いということに気づけたことがこの事前学習での最大の学びだったと思う。
(2)訪問中
地域理解
南魚沼の栃窪集落を訪れた初日には、まず壮大な雪景色に感動した。やはり、普段から雪国とは縁遠い暮らしをしている私にとっては景色そのものが違うため、本当に同じ国なのかと思った。しかし、やはり現地の人々と話してみると日本の田舎の共通点が見えてきた。というのは、全ての田舎という訳ではないが、ほとんどの田舎の人は「地元に何もない」というのである。
例えば上述したような人を感動させることができる雪景色があったとしてもそれは彼らにとって当たり前であり、何ら特別なことではないということである。なんなら、除雪の対象である邪魔な存在と認識しているようでもあると感じた。実際、そこでずっと生活している人にとっては、雪は邪魔なものなのかもしれないし、私もそこでずっと暮らしていたら邪魔に感じてしまうのかもしれない。
しかし、この雪というのは世界でも限られた地域にしか存在しない神秘的な自然である。また、現地の人の話を聞いていると雪があるからできる生活の工夫や遊びなどもあることが分かった。このことから考えるとやはり、ある地域に生まれ育ちその地域から外に出たことがない人は地域の魅力に気づきづらいのだと実感した。その土地の隠れた魅力に気づくことができるのは外部の人間ないし、地域で生まれ育った人が一度外へ出て帰ってきた人であるということを感じた。
例えば栃窪では助け合いが当たり前らしいのだが、雨が降って雪堀が出来なかったときに、一度栃窪集落を離れ東京へ行ったことがある現地の方が私達に栃窪の事を語ってくれた際に、「栃窪は確かに不便さはあるかもしれないが、不便であることで助け合いが生まれるのかもしれない」という様なことをおっしゃっていた。このことからも、外部からの目線を取り入れることで、視野を広くして物事を捉えることができ、地域への理解が深まり、より地域の独自性を掴むことができるといえる。
田舎の違いを生み出すもの
しかし、田舎といっても地域によって独自性があるにも関わらず、私の経験からすると田舎はどこも一緒だと考えられることが多い。 今回の授業でも私が気になったことは他の学生達の考えとして、南魚沼の栃窪を田舎全体の代表として捉えているのではないかということである。他の学生達は東京や埼玉、横浜などの都会出身の学生がほとんどであったため、彼らには都会と田舎の比較という視点があり、私は田舎と田舎の比較という視点で考えていたため、彼らの視点は私には足りなかったので興味深く感じた。
【写真2】現地活動での話し合いの様子
一方で私が疑問に思ったことは、他の学生が栃窪と東京の比較を田舎と都会の比較に直接的に結び付けようとしているのではないかということである。たしかに都会と田舎の比較というテーマは興味深いものである。しかし、栃窪と東京を比較したとしてもそれはあくまで異なる2つの地域の比較であるように私は感じていた。栃窪はあくまで栃窪であって田舎代表ではない。田舎といっても色々な「田舎」がある。つまり、栃窪と東京を比較したとしても、「田舎」と「都会」の比較にはならないということが私の考えである。しかし、学生達は栃窪を田舎そのものだと捉えているように感じた。そのため、都会出身の人々は、ある田舎の地域を見たら、その地域が田舎全てを表象していると考えてしまうのではないかと私は考えていた。以上のような視点もふまえて、同じ田舎という属性である地元と栃窪を現場の活動を通して私なりに比べてみようと考えた。その結果を少しばかり紹介する。
個人的に共通点だと感じたことは、子どもの頃の遊び場が自然であるということである。これは都会と比べると田舎の特徴になるのかもしれない。相違点はまず、気候である。栃窪の方が圧倒的に寒く、積雪量も全然違う。そのため、育てる作物が違う。私の地元ではみかんやお茶を盛んに栽培しているが、それは南魚沼では育てることが出来ない。そうなると景観も違ってくる。
また、人々の性格も少し違うように感じた。どちらの人も優しいが、地元に対しての意見などはまるで違う。栃窪の人は地元に対し少し文句が多い印象を受けたが、私の地元でも文句は出るがどちらかというと地元に対し肯定的な発言の方が多い。
また、遊びでは、南魚沼では雪の上で相撲を取ったりしていたそうだが、私の地元では川で泳いだり山で遊んだり、相撲を取る場合は海で相撲に興じていた。時代の違いももちろんあるが、これは両地域の自然や気候、地形の違いが成せるものである。この少しの比較でも個人的にはたくさんの相違点が見つかり、正直全く別の場所という印象を受けた。
そのため、日本の田舎は一括りで捉えることが出来ないと感じた。つまり、田舎の中でも多様な地域があるということである。一見似ている様に見えるが、「田舎」と一括りにしてしまうと地域の多様性が見えなくなってしまうのではないかと感じた。そして、その違いを生み出しているのが自然であり、その自然から生まれる産業である。それらが地域の外観を作り、さらには生活を変え、特色を生み出すのだと私は考えている。そのため、田舎を理解する際には、自然と生業に着目することで多様性が見えてくると思う。
真の楽しみとは
この授業のテーマの1つに真の豊かさについて考えるということが挙げられていたのだが、私は豊かさというよりは楽しさや幸せという視点で考えた。私はここの生活で人生の幸せや楽しさとは食と労働だと思った。栃窪滞在中、旅館のご主人が腕によりをかけて地元の食材をメインに使って毎回の食事を作ってくださったのだが、やはりとても美味しかった。地域の新鮮な食材を使った料理は、普段よく食べているインスタントのものとは全く違うものであった。やはり地域のものを使って食べる食事はこんなに美味しいのかと改めて感激した。
また、食事が美味しいと感じる理由は料理そのものが美味であるということもあるが、誰かと話をして食事をすることが食にとってとても重要なものだと感じた。大学生になってから家を出る時間が早くなり、帰るのは遅くになったりするなどして、高校生の頃までのように毎回誰かと食事をする機会は減っていた。栃窪滞在中は毎回誰かと食事をしたことで、改めて誰かと一緒に食事をすることの大切さを実感した。また、栃窪では雪堀の手伝いをしたのだが、雪堀などの労働の後に食べる食事はより一層美味しく感じた。つまり、体を動かして労働をすることで、食事がより美味しく感じるようになるのだ。正直、栃窪滞在中、私は食事の時間をとても楽しみにしていた。
ここでいう労働というのはお金を稼ぐための活動ではなく、体を動かして行う作業の事である。雪堀などはとても重労働で体への負担は大きいが、やっている最中は楽しいし、作業後は爽快感や達成感をとても感じることができる。そのため、爽やかな汗がかけるし、体も心地よい負荷を感じることができ、これが本来の労働なのだと感じた。
人間は本来自然で狩りや採集、農業をして食料を得、活動してきた。しかし、現代社会では、体を使わずにお金を稼ぐスタイルが増えてきている。このスタイルを頭ごなしに否定するわけではないが、人間は元来動物であるため、体を動かさないことはやはりストレスにつながるのだと思う。また、人は自然の中で生活してきたのであるから、自然の中に身を置くだけで、ストレス解消にもなり、爽快感を感じることが出来るのだと思う。つまり、真の楽しさや幸せは自然の中で体を動かし、その対価としてご飯を誰かと一緒に食べることなのではないかと考えた。そして、私はこの2つを満たす現代の労働は農業などの第一次産業ではないだろうかと今は考えている。
(3)事後学習
訪問中は自分の地元の特徴や南魚沼への理解を深め、さらには真の楽しみとは何なのかを考えることが出来た。この事後学習で一番印象に残っているのはある学生の意見である。それは、「東京は故郷になり得るのか否か」という話である。その学生曰く、「東京の人は故郷がないことがコンプレックスである人が多い」と言っていた。しかし、その学生自身は全くそういったものはないそうである。私 はここまで、地方部に目を向けてきたが東京のふるさと性については正直考えたことが無かった。しかし、この学生の意見で東京もまたある地方の一部、つまり数ある地域の中の1つの地域に過ぎないのだと気づいた。しかし、私の今までの生活を見ても都会出身の人は確かにそういった類のコンプレックスを抱いている人は多いように感じる。しかし、東京も地域の一部であると考えると都会の街づくりや都会の在り方も考えなくてはならないように感じた。この意見交換会で感じたことでもあるが、都会出身の人は田舎の文化や社会に憧れを感じている人が多い。つまり、都会にも田舎の地域の長所である部分を取り入れられていく工夫があると面白いのではないか。個人的には都会でも農作業が出来るスペースを増やした街づくりなどが良いのではないだろうかと考えている。
この授業を通して、自分が授業前に考えていた学びの目標を満たすことが出来た。田舎の理解などはまだまだであるが、他学生の意見などを聞いたことによって授業前は全く考えていなかった新たな発見や気づきがあった。この目標+αの「α」の部分が自分一人では全く気付くことのできない学びであったため、授業を通じて学んだ意義が大きかったと感じている。